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2012.03.07 (Wed)

スサノオの正体

ついに!ついに辿り着いた。私の古代史探求の旅。

結論を先に言っておこう。  スサノオは蘇我〈須賀、須佐〉の王であり
蘇我の王が聖徳太子である。そしてキリストではなく、な、なーんと、釈迦であったのだ。
釈迦の精神世界を深く受け継ぐ・・という意味だ。

バラモンの王〈ブラフマン?〉がつき従う、釈迦〈ブッダ〉だった。
牛頭天皇と呼ばれるのは、釈迦の出家前の名がゴウダマ・シッダールタ。

ゴウダマとは最高の牛、という意味なのだ。それに・・牛頭、ゴアタマ!似てるじゃないか。

これは文献からは知りようのない、孫娘を通じての伝言であり、この解釈にいたって
歴史上の矛盾がつぎつぎと、とけてくる。

16年前に歴史上の人物で誰に蘇ってもらえばこの国をまっとうにできるかと考えた。
私は聖徳太子に目をつけた。
歴史は闘いに勝った方が都合よく書いてゆくのだ。

奈良の太子は創作だった。
そしていかにも秦河勝が、太子であるかのように辿らされる・・・が。

太子の創作によって一番損をしたのは誰か? 
一番得をしたのは誰か。
 
真実はどこに隠されているか。矛盾点を探してゆくしかない。

一番迷惑を被ったのは蘇我氏である。
蘇我氏の業績が聖徳太子そのものであった時、蘇我氏を撃つ名目がない。

蘇我氏は仏教を受け入れることで物部氏と対立。
秦、物部両氏にはどうしてもユダヤの影がある。

蘇我氏にもユダヤの影は付いて回るが
蘇我氏を最も恐れた中臣鎌足〈藤原氏〉は百済の王族といわれる。

百済は高句麗の一部が分かれて作ったのだからヘブルの影響はあるだろう。
高句麗の王、朱蒙の親はヘブルだというのだから。

聖徳太子は蘇我の一族であり蘇我の王だ。

奈良の法隆寺にまつわる聖徳太子は創作だが別のところにモデルはいる。
福岡、宮地嶽神社の巨大墳墓の主、九州王である。

横穴式石窟では日本一だ。元日のお参りも九州一と聞いている。
余程慕われていた王であり、後の人が権力を保持していなければ
このような墳墓は保てない。

そしてなお尊敬すべきは江戸時代、この墳墓が見つけられたとき
未盗掘であったこと、その後の保存が素晴らしかったこと。

埋蔵文化財に会いたかったら今はその多くが国宝として
九州国立博物館にある。

奈良にもかなりのものが移動している事だろう。〈古い時代に・・〉

九州年号に兄弟〈けいてい〉というのがある。
宮地嶽神社にも蘇我神社がある。

隋の使者が来たときに「日出国の天子として迎えた王である。
その名はアメノタリシヒコ。

夜のうちは我が治め、日が昇れば弟に委ねると言われたと書かれている。
この王に関しては、
髪は剃り、足は半跏であったという記録も残っている。

蘇我は須賀であり須佐でもある。須佐の王といえばスサノオである。

釈迦亡きあと、釈迦の教えを編纂し東方に広めよと命じたのは
アショカ王だった。蘇我は須賀であるとしたら阿須賀はアスカ、飛鳥は蘇我氏の本拠地だ。

古事記や日本書紀の中には矛盾点がいっぱいある。
後の世の人が真実を掘り起こせというメッセージだと思っている。

シャカ族ないし、アショカ王の流れをくむとしたら、
孫娘の言ってることはそのまま通じる。

孫と話す、お空の上のお話は、私の人生を変えるばかりでなく
日本の歴史をひっくり返してしまいそうだ。

「蘇我」・・我を蘇らせよ。と書いてあるではないか。阿蘇もわれ蘇るだ。

スサノオの歌を、歌詞を書けと言われた時に一番先に出てきたフレーズは
「スサノオ、スサノオと、わが名を呼べ」だった。



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